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以下のテキストには”ネタバレ”を含んでいます。閲覧にはご注意ください。

ここから後編です。

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これでヌけるか! GMK

けっきょくのところ、1984年の『ゴジラ』以降のいわゆる"平成ゴジラ・シリーズ"は、わたしにとって伊福部昭の新曲を聴くだけのイベントに終始しました。その後に続いたモスラ3部作と1999年、2000年のゴジラ2作品も同様に糞おもしろくないものばかりでした。「なにと比べておもしろくないのか?」ちゅーと、「それ以前−70年代までの特撮映画」と比べてみての話です。

それじゃァなぜ、昔の特撮映画がおもしろくって、最近のがおもしろくなかったのでしょうか? 原因はイロイロあるでしょうが、それをチマチマ論うのは本稿の主旨じゃないじゃないんで割愛して(って、ここまでも主旨からハズレまくったことばかり書いてるような気もするんですが ^^;)、話を一極に集中させたいと思います。

なぜ、84年以降の東宝特撮はおもしろくないのか?

それは…

"ぬきどころ"に欠けるからです!(爆)

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特撮の神髄は、"ぬきどころ"なり

50年代から70年代にかけて作られた特撮映画には、必ずといっていいほど"ぬける"シーンが存在しました。

例えば…

『地球防衛軍』における白川由美の入浴シーン。ハッキリ言って、ストーリーになんの関係もないシーンです(笑) モゲラが村ん中で暴れまくってる最中、のんびりお湯につかる白川さん。ですが、クライマックスのミステリアン・ドームとマーカライト・ファープの一大攻防戦より、この白川さんの入浴シーンを記憶に止めている人は少なくないでしょう(ワシや、ワシや)

白川さんといえば、『美女と液体人間』で下着姿のまま佐藤允に下水道の中を引きずり回されるシーンもエロエロ度全開でした。

『海底軍艦』でムー帝国の女王に扮した小林哲子が高島忠夫に恫喝されて衣服を脱ぎ捨てるシーン。もちろん画面には首から上しか映らないんですが、客席のお父さんたちはフレームの外にあるハズの哲子さんの裸体を心眼で見つめていたハズです。そう、かつての特撮映画にはそんな想像を喚起させる"なにか"があったのです。

『宇宙大怪獣ドゴラ』の若林映子や『キングコングの逆襲』の浜美枝は(奇しくも共にボンド・ガールですね)、網タイツ姿の悪女ぶりでお父さんたちの目と脳を刺激しました。子供の付き添いで映画館に足を運んだお父さんたちの多くは、彼女たちに弄ばれる自分の姿を想像してはコーフンしていたに違いありません。

逆に、『怪獣総進撃』で久保明にイヤリングを引きちぎられて耳たぶから血を流す小林夕岐子に萌えたS系のお父さんもいたことでしょう。

『モスラ』や『キングコング対ゴジラ』の南方原住民(通称・日本土民)の女性は全員、胸と腰に小さい布を巻いただけのビキニ・スタイルで、エキゾチックな香りを提供してくれました。あまつさえ、胸をブルンブルン振るわせながら踊りまくるんですから何をか況やです。

『ゴジラ対ヘドラ』のサイケな主題歌『かえせ太陽を』と、それに合わせて踊る麻里圭子のボディ・ペインティングは、当時の小学生(ワシや、ワシや)のリビドーをかき立てました。じつはアレ、ボディ・ペインティングではなく、サイケな柄のTシャツを着てたのだということを知るのはずっと後―たぶん高校のときぐらいのことです。

東宝特撮が休眠状態に陥る前の最後の作品『メカゴジラの逆襲』では、ツクリモンとはいえ"乳"が銀幕に映し出されもしました! その栄えある"怪獣映画乳出し女優第1号"の称号を得た藍とも子は、後にロマンポルノ『春画』でホントに乳を出して、わたしたちに素敵な夢を見させてくれました。

そして、東宝特撮の"ぬきどころ"を語る上でゼッタイはずせない人がもうひとり、います。当時の怪獣少年及びその付き添いのお父さんたちに夢と希望を与えてくれた女優さん。

その人の名は……

東郷平八郎……じゃなくって(笑)、

そう、水野久美です!

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水野久美は菩薩である

水野久美さんといえば特撮映画に出まくってたって印象が強かったんですが、調べてみたらじつは7、8本ぐらいしか出てないんですね。にもかかわらず、"東宝特撮といえば水野久美"というイメージが強いのは、やはり"ぬきどころ"度がそれだけ高かった女優さんだったからに違いありません(きっぱり!)

久美さんは1959年の『日本誕生』にも出てますが、実質的な特撮映画初登板作は62年の『妖星ゴラス』といえるでしょう。冒頭からいきなり白川由美とのツーショットで「お月様しか見てないから」って、湖で泳ごうと服を脱ぎかける大サービス・シーン(って、ブラがちょっと映るだけなんですけどね)。中盤では泡風呂シーンあり、と1発目から早くも飛ばしまくる久美さん!

がしかし、そんなものァ軽い挨拶程度だったことを、特撮映画ファンは翌年の『マタンゴ』で思い知ることになります。のっけから水着姿で客席のお父さんたちを悩殺する久美さん、今回の役柄はキャバレーの歌手ってことで、妖艶なナイトドレスに身を包み渋い歌声を聴かせてくれたりもしますが(歌は吹き替えですけど ^^;)、最大の見せ場はなんといっても、「食べたらキノコ人間になるで〜」っていう恐怖の毒キノコ・マタンゴを食するシーン。

キノコを口に含む瞬間のうっとりした表情&濡れた唇。んでもって、横目でねっとりした熱い視線を送られた日にゃァ、こちらの股間のマタンゴもいきり立つってなモンです(下品ですんません)。このシーンをオカズにした人は、少なく見積もっても全国で250万人はいると推定されます(根拠なし)。

これで一躍、特撮界の"ぬきどころ"女優ナンバーワンの座をつかみ取った久美さんですが、このあと2年間の充電期間に入ってしまわれます。あ、いや、特撮以外の映画にはバリバリ出られてたんですけどね(^^;) この間に、前述した若林映子や小林哲子、さらに星由里子、藤山陽子などが次々と現れて、久美さんの地位も奪われたかに思われたのですが……

どっこい、久美さんは65年の特撮復帰作『フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)』でいともたやすく2年間のブランクを克服しました。ハリウッド俳優ニック・アダムス相手に白衣コス・浴衣コスの大攻勢。それ以上にエロいのが、フランケンシュタインの心臓から生まれた怪人との愛憎関係です。

フリークスへの献身的ともいえる愛情と、その偽善的行為への自己批判との相克→そこから更に生みだされる真の愛情と心の中に広がる偽善性への懐疑。永遠に続くかのような久美さんの苦悩! 「これぞフェチの極み!」とキメウチしても、反対する人はいないでしょう。実際、『フラバラ』の水野久美の前からは、クローネンバーグもデヴィッド・リンチもティム・バートンも石井輝男も丸尾末広も、みんなまとめて裸足で逃げ出すに違いありません。

そして、久美さんの魅力は続く『怪獣大戦争』で頂点を極めます。この作品で演じた波川女史こそ、水野久美の最高のキャラ(特撮以外の作品を含め)にして、東宝特撮映画史上最強の"ぬき"キャラであったと断言できます。宇宙飛行士グレン(『フラバラ』に続き共演のニック・アダムス)とのキス・シーンの濃いこと、濃いこと。並の女性なら、あんなキスされたら気ィ失いまっせっていうぐらいのニックの攻めに堂々と立ち向かった久美さんのカッコイイこと!

ニックが実際に久美さんを口説いたっていうのは特撮ファンには有名な話ですが(『サンダ対ガイラ』のDVDに納められたオーディオ・コメンタリーで久美さん自身も証言しておられます)、そりゃムリもない。わたしがニックの立場でも、久美さんをアメリカに連れ帰りたいって考えますね、ゼッタイ。

『怪獣大戦争』の久美さんが素晴らしいのは、いくつかの女性像を巧みに使い分けた点にあります。前述のとおり、グレンとの関係は五分と五分だし、町の発明家(久保明)に接するときの高飛車な態度から、映画の前半では"できる女"、"強い女"を表現していた波川ですが、後半に入ると徐々に弱さを露わにしはじめ、最後には、あなたのためなら命も捨てましょう的な愛情最優先な(グレン=男からするとたいへん都合のいい)女に変貌するのです。

また、波川の正体は地球侵略を企てるX星人なのですが、その統制官(土屋嘉夫)の命令には絶対服従って面も併せ持っています。映画前半の波川が地球人(特に久保明)に対するS的要素の具現化だとすると、統制官への服従はM的要素を具現化したモノだといえるでしょう。SありMあり、熱愛もあれば純愛もある―一粒で4つの味が楽しめる『怪獣大戦争』の久美さん。彼女の他にこんな役をこなせる女優さんがいたでしょうか?

久美さんは『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』で再びフェチフェチな女科学者を演じた後、『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』の日本土民役(とーぜん、肌露出度大)を最後に特撮映画から遠ざかることになります。それから30年以上も経つというのに、久美さんを越える特撮"ぬき"女優が出てきてないのは、久美さんの偉大さを物語ると同時に寂しい気もしますね。

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かんちがいすな! 平成ゴジラ

ここまでのテキストを読んでいただけたらわかるように、1984年の『ゴジラ』以降のいわゆる平成ゴジラ・シリーズがおもしろくなかったのは、"ぬきどころ"がほとんど見あたらなかったためです。実際、84年の『ゴジラ』からシリーズ最終作『ゴジラvsデストロイア』、その跡を継いだモスラ3部作、USゴジラの後の近2作に至るまで、"ぬく"ことができるシチュエーションは、『ゴジラvsビオランテ』の自衛隊オペレーター(鈴木京香)の制服姿ぐらいだったんじゃないでしょうか(笑)

なぜでしょう?

沢口靖子、小林聡美、佐野量子など一見"ぬけ"そうにない人が主役クラスに名を連ねてるため、その責任を女優さんに押しつける人がおられるようですが(どこにおるねん?)、はたしてそうなのか?

往年の作品では、お嬢さん役専門だった星由里子や沢井佳子でだってジューブン"ぬけ"たではないですか(わたしだけだったりして ^^;) 逆に『ゴジラvsキングギドラ』では小細工なしでもジューブン"ぬける"こと確実な中川安奈をヒロインとして立てておきながら(しかも、後半はホットパンツでアクション満載なのに!)、"ぬけ"なかった事実をどう判断すればいいのか?

また、平成ゴジラは、小高恵美扮する三枝未希が美少女から美女へ変貌を遂げる成長物語でもあったわけで、こんなおいしいネタを抱えながら恵美ちゃんを"ぬき"系女優として開花させられなかった責任はどこにあるのか?

これはやはり、女優さんから"ぬきどころ"を抜き出せなかった(ややこしいなァ)スタッフ側の問題だと言わざるを得ません。54年の『ゴジラ』以来、一貫して怪獣モノを作り続けてきた田中友幸プロデューサーがお齢を召したことも大きいんでしょうが、平成ゴジラ・シリーズのA級戦犯といえば、やはり大森一樹を置いて他にいないでしょう。

『ゴジラvsビオランテ』、『ゴジラvsキングギドラ』の監督であり、『ゴジラvsモスラ』、『ゴジラvsデストロイア』では脚本を書いた、いわば平成ゴジラ・シリーズを作ったとさえ言っていい大森一樹。かねてから「ゴジラと007を撮るのが夢」と言い続けていたぐらい、大森監督はエンターテンメント指向の強い人なんですが、"娯楽"に徹するあまり、"真の娯楽"である"ぬきどころ"を失念してしまったようです。大森監督はそれまで、伊藤蘭や真行寺君枝などをけっこうエッチに撮ってたりしてたんで、期待はしてたんですけどねェ。期待が大きかった分、失望感も強かったんですね、これが。

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金子修介の美脚魂

映画監督はおしなべてスケベ親父と相場が決まってますが(ホントか?)、金子修介もまたその例に違わずスケベ親父であることは明白です。金子監督の撮った映画をほとんど観てるわたしがそう言うのだから間違いありません(だから、ホントか?)。

金子作品に共通のキーワードは「微乳」と「美脚」であることに異論を挟む人はいないでしょう(だ、だからァ、ホントなのかって ^^;)

「微乳」に関しては、金子作品の歴代ヒロインを思い浮かべてみれば明白です。監督デビュー作『濡れて打つ』の山本奈津子に始まって、イヴ、浅野なつみ、水島裕子、小沢なつき、かとうみゆき、安田成美、佐伯日菜子、矢田亜希子、藤谷文子、中山姉妹に前田姉妹…… 少なくともそこに”肉感的”とか”グラマー”とか”ボインちゃん”とかって言葉で言い表せる女優さんはいないと思われます(ボインちゃんって…)。

「美脚」に関しては、もっとハッキリしてます。金子監督はにっかつロマンポルノ出身ですんで、トーゼン初期の作品にはポルノが多い。主演女優が乳を見せても当たり前の世界なんですね。ところが、一般映画となると、そうもいかない。中山美穂や安田成美を脱がすわけにはいかない。でも、脚はまぁ一般映画であっても堂々と見せることができると。そこで、金子作品のヒロインはたいていミニスカ履いてるってことになるわけです。宗教的な事情から肌の露出がきわめて少ない斉藤由貴でさえ、ミニのボディコン・スーツで梯子を登らせられたりしちゃうんですから(『香港パラダイス』)。

95年の『ガメラ・大怪獣空中決戦』は、中山忍、藤谷文子といった典型的な微乳女優の競演ってことで話題になりましたが(おい!)、忍ちゃん扮する鳥類学者・長峰が劇中ほとんどパンツ・スタイルだったことに(ラスト20分だけ、膝丈のスーツ着用)、不満感を露わにした人は少なくなかったでしょう(ワシや、ワシや)。

その反省からか、金子監督は翌年の『ガメラ2・レギオン来襲』のヒロインに美脚で定評のあった水野美紀を起用。出演シーンの大半でミニスカを履かせ、そのうえ、意味もなく机の上に座らせたりして美脚をことさら強調するという、スケベ親父の名に恥じない演出ぶりをまざまざと見せつけました。そして、その金子演出に、おそらく金子が望んでいた以上の答えを出した水野美紀は日本一の美脚女優としての地位を獲得した! といっても過言ではありますまい。

金子演出と美紀ちゃんの美脚のおかげで『ガメラ2』は日本映画史上に残る”美脚映画”として、日本SF大賞を受賞するなど、数々の栄誉に輝きました。

えっ? ”美脚”と”SF大賞”は関係ないだろうって?

なにを仰いますか。日本SF大賞は、プロのSF作家の投票で決まるのですよ。SF作家が脚フェチでないハズが無いじゃありませんか!(すごい決め打ち) SF作家のお歴々が『ガメラ2』へ投じた一票は、美紀ちゃんの美脚への一票だったと、わたしは固く信じてます(勝手に信じときなさい!)

『ガメラ2』が金子美脚映画の頂点であるならば99年の『ガメラ3・邪神降臨』は美脚も包括した金子フェチ映画の頂点と言えるでしょう。この作品で金子監督は中山忍の長峰をふたたび主役に据え、今度は登場シーンの半分以上でミニスカ姿を拝ませてくれました。全国の忍=長峰ファンは、ようやく溜飲を下げることができたのです。

また、微乳派のためには前田愛をダブル主役として配置し、あの水野久美でさえ踏み込めなかった怪獣(イリス)との濡れ場シーンまで用意するというトンデモないことまでやっちゃってくれちゃってます。

藤谷文子は3作連続の出演で"少女→女"への変貌をきっちり押さえてくれてますし、微乳だけでは満足できない人のためにお色気ムンムン(死語)の山咲千里を用意するという念の入りよう。山咲さんは綾波レイを意識した髪型でアニメ・ファン及びコスプレ・フェチ対応もバッチシと、まさに金子映画の集大成と言い切っても過言ではありますまい(こればっか)。

金子監督はこの後、2000年に薄倖の美脚超能力者の悲劇を矢田亜希子主演で描いた『クロスファイア』を撮り、そしていよいよ『GMK』の登場とあいなるわけです。主演は水野美紀にちょっと似てるけど、それ以上にそそる顔立ちの新山千春! わたしたち(なんで複数形やねん ^^;)の期待は大きく脹らんだのですが……

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主人公が脚を見せない金子映画なんて……

いや、もぅ、驚いたのなんの。『GMK』の千春ちゃんってば、最初から最後までずっとパンツ・ルックで押し通すんだから。クリープを入れないコーヒーを飲むことはあっても、女性の脚が見れない金子作品などあるわけないと信じていたわたしの驚きようをわかってくださいますよね(って、誰に聞いてるねん)

「なんでやねん、金子!」

伊福部先生の音楽に乗ってエンディングタイトルがロールアップした瞬間、わたしゃスクリーンに向かって叫んでましたよ!

千春ちゃん扮する由里は、ゴジラを追いかけて箱根から横浜まで自転車こぎまくるんですが、これって誰が見ても「んな、アホな」ってシークエンスですよね。ゴジラとバラゴンの対決で盛り上がってたのが一気にシラけちゃって、画面から心が離れること間違いないアホな場面なんですが、それを"アホなこと"で終わらせないためのアイテムがあったハズです。もうおわかりでしょうが……そう、ミニスカです!

由里がパンツではなくタイトなミニを履いてたとしたら、きっと、わたしはこのシーンを許せたに違いありません。それどころか、もっと自転車に乗っててほしいとさえ思ったことでしょう(笑) 美女が美脚さらして自転車こぎまくるんですから、横浜どころか東京突っ切って東北縦断して北海道へ渡ったとしても、許せてたでしょう(爆)

ラスト近くで由里が、ゴジラとキングギドラが戦う東京湾に落下するシーンも同様です。あの高さから、しかもゴジラのおかげで放射能汚染されまくってること間違いなしの海に落っこちて、無事でいられるハズがありません。でもそれだって、ミニスカさえ履いててくれたら納得できてたハズです。

海から上がってズブ濡れの由里、その脚にピッタリはりつくミニスカ! 残留放射能も吹っ飛ぶってなもんやん! このシーンでは、ブラウス濡れ透けでブラ線クッキリ写ったりもするんですが、やっぱり脚を見せてない分インパクトが弱いんですね。

いったい、金子監督はどうしちゃったんでしょうか?

脚フェチとして人後にもとらない映画ばかりを撮り続けてきた金子監督の、この豹変ぶりはいかなるモノが原因なのか? わたしは去年の暮れに『GMK』を観て以来、その理由をずっと考えてました。お正月休みもほとんどソレに費やしたぐらいです。そして、考えに考え抜いて、わたしはひとつの結論にたどり着きました。

これは金子監督が緻密に計算した……"戦略"なのだと!

もう一度、平成ガメラ3部作を思い出してみましょう。『ガメラ1』の中山忍はほとんど脚を晒しませんでした。でも、そのおかげで『ガメラ2』における水野美紀の美脚ぶりはいっそう際立ちました。また、中山忍は『ガメラ3』で脚を晒して、お客さんの"観脚願望"を満たしました。これって、間違いなく……"じらしプレイ"ですよね(爆)

そう、金子監督はわたしたちに"待たせる"ことを強要して、"じらしプレイ"を楽しませてくれたのです。もちろん、ご自身は"待たせる"ことによって、S的快感に浸ってたわけですね(笑) となると、金子監督、ゴジラでも同じことをしようとしてるのではないでしょうか?

まずは"ぬきどころ"度の薄い映画を世に放つ。人々の不満が高まった頃に"ぬきどころ"満載の続編をぶちかます。これぞ、金子監督のフェチ的戦略ってわけです。

これはもちろん、わたしが考えた仮説にしか過ぎません。ってゆーより、妄想か(^^;) でも、これって、金子監督ほどの力量を持った人だからこそ成り立つ仮説なのです。だって、ただ単に"ぬけない"映画ってだけなら、誰も次に期待なんかしないでしょ?

映画はおもしろかったのに"ぬけな"かった。だからこそ、欲望も高まるのです。それに、ホントにおもしろくない映画だったら次の機会も無いでしょうから。

わたしの仮説を証明するには(って、大袈裟な)、金子修介にもう一度ゴジラを撮ってもらうしかありません。次回作『ゴジラ×メカゴジラ』の監督は、『ゴジラ×メガギラス』の手塚昌明さんですが、その後はぜひ、金子監督に再登場願いたいもんです。

ここまで『GMK』のアカンところをウダウダと書き殴ってきたわけですが、冒頭にも記したようにわたしはこの映画が大好きなのです。次はいよいよ……誉めますよ!

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