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以下のテキストには”ネタバレ”を含んでいます。閲覧にはご注意ください。

バカでした。

北村龍平を信じたわたしがバカでした。

『あずみ』の後半がそこそこ面白かったので、ほのかな期待を抱いてた、そんなわたしがバカでした。

『あずみ』前半の史上マレなる薄っぺらさを忘れていたわたしがバカでした。


ガマンできたんは冒頭の数分間だけ。

  • ワイド画面に映しだされた”TOHO SCOPE”のロゴに「おおっ!」
  • ついに実現した”轟天号対ゴジラ”に「おおっ!!」
  • その轟天の”艦長・中尾彬、副長・上田耕一”という配役に「おおっ! おおっ!」

……ここまで。

ここから後はガマン大会。イライラしっぱなしの2時間。これまで40年ほど映画というモノを観てきて、その中には随分とヒドイ映画面白くない映画もあったわけですが、「許せない」と思った映画はコレが初めてです。

仮にも「ゴジラ誕生50周年記念映画」ですよ。仮にも「最後のゴジラ」と銘打った作品ですよ。映画の冒頭には、「田中友幸、本多猪四郎、円谷英二に捧ぐ」なんてコトまで謳っちゃってるんすよ。

それがコレかい!

50年もかけて作り上げてきた”ゴジラ”の歴史が、こんな映画で終わってしまうとは、田中さんも本多さんも円谷さんも空の上で泣いてるで、きっと。いや、ハッキリ言って「映画」にすらなってない、カス、クズ、ゴミ、それ以下

どこをどーすれば、こんなモノが作れるんでしょ?

答えは明白、北村龍平バカだからです。

そして、それ以上にバカなのが、そんな北村龍平に大事な「最後のゴジラ映画」を撮らせ、できあがった作品をなんの臆面もなく公開しちゃった富山省吾をはじめとする東宝の首脳陣。そして、そして、それに輪を掛けてバカだったのが、北村龍平や富山省吾を”信じて”、映画館に足を運んでしまったわたしであると……

嗚呼、ホンマにわたしはバカでした、嗚呼……

しかしまァ、世の中おもしろいもんで、こんなゴミ以下のモンに対しても肯定的な意見を述べられている映画評論家、映画ライターの方々がいたりします。しかも、その人たちがおしなべて、脚本や演出が破綻しまくっていることを認めながらも、このクズ以下のモンを映画として容認し、なおかつオモシロイとさえ言ってるんですから、ホンマにオモロイもんです。ま、映画の評価が観た人の感性によって違ってくるのは当たり前のことやと思うし、他人の意見にアレコレ口を挟む気は毛頭ないんですが。

……ええんか、ホンマに?

単なる映画ファンならともかく、これでメシ食ってる人がこんなカス以下のモンを持ち上げたりして、今後の仕事とかに影響ないんか? とかいらん心配したりして。

更におもしろいことに、肯定派だけでなく否定派の論旨にも、なんか変なモノが多いような気がします。たとえば、キース・エマーソンがスコアを書いた音楽について、「音楽がヒドい」ってことは多くの人(肯定派も否定派も)が述べていますが、「音楽の使い方がヒドすぎる」ことに言及している人は、わたしが見たり聞いたりした限りではおりません。音楽自体の良し悪しは映画にとってあくまで二次的なもので、作曲者がいくら素晴らしいスコアを書いても、その使い方が悪ければ魅力も半減、またその逆もありうるわけです。

たとえ単調極まりなく厚みもない楽曲でも、スクリーン上の”絵”とマッチしていれば、その曲は「ええ曲」として認知され、そのシーンは「ええ場面」として心に残ることになると思うんです。ところが、北村龍平は、どんなシークエンスであろうと、ただただ同じような曲をダラダラ垂れ流すだけ。そこをなぜ誰もツっこまないの?

このゴミ以下のモンには、映画評論家やライターを狂わす「R塩基」が仕組まれてるんでしょーか(笑)

北村龍平はインタビューなどによると、ゴジラ映画の中で『ゴジラ対メカゴジラ』がいちばん好きなんだそーです。でも、どーやら、ただ単に「好き」なだけで、『ゴジラ対メカゴジラ』という映画から、映画作りの”何か”を学んだりは全然しなかったようです。

『ゴジラ対メカゴジラ』は数あるゴジラ映画の中でも特に良い作品だとは思いませんが、それでもフツーに楽しめるし、なにより”映画”になっていました。この『ゴジラ対メカゴジラ』に限らず、怪獣映画、SF映画というものは、ストーリーだけを引っぱり出せば、おしなべて荒唐無稽……ってゆーかムチャクチャなモノばかりです。一般的に評価の高い(といっても”特撮ファンジン”といった極めて狭い範囲における”一般的”なのですが)1954年の最初の『ゴジラ』にしろ『キングコング対ゴジラ』にしろ、『地球防衛軍』や『海底軍艦』にしろ、また平成『ガメラ』3部作にしろ、例外ではありません。それは今回のクズ以下のモンも同じです。

それじゃあ、なぜ『ゴジラ』や『ゴジラ対メカゴジラ』は映画として成立しているのに、今回のカス以下のモンはそうじゃないんでしょう?

その最大の理由が、”リアリズム”の欠如にあることは明白です。映画を映画たらしめる「映画的リアリズム」ってモノを、北村龍平はまったくわかってらっしゃらないらしい。だから映画以前のモノしか作れない。『ゴジラ対メカゴジラ』が好きなら、もっと何度も見直して、ひとつひとつのシークエンスが持つ意味・役割といったものを、もっともっと研究してほしいものです。南極基地のシーンで佐藤勝氏の音楽を流すってだけで「リスペクトしました」って言われても、正直ハラが立つだけっすよ。

このゴミ以下のモンに対して、「このシーンがヒドかった」と列挙するのはあまり意味があることとは思えないんですが(とにかく全体的にヒドすぎるので)、それでも特にわたしが「許せない」と思ったシーンを最後にいくつか並べておきます(順不同)。

水野久美のメイク
お歳がお歳なのだから「もっと綺麗に」とは言いませんが、あんなに汚く写るようにメイクすることないでしょう。『ゴジラ×メカゴジラ』のときみたいに、フツーの年相応なメイクでよかったやん。いちおうコレって、久美さんが光り輝いてた『怪獣大戦争』のリメイクでもあるんでしょ?
國村隼のまばたき
水野真紀は、アンドリュー宝田(笑)が一度もまばたきしないことから実はX星人であることを見抜くわけです。で、終盤、國村さんがドン・フライに、今後の計画(ゴジラを目覚めさしてX星人&怪獣軍団と闘わせる)を確認するシーン。ここで、長ゼリフのあいだ國村さんに一度もまばたきをさせないのは如何なモノか。「こいつもX星人?」って余計な想像しちゃうでしょうが。このへんのええ加減さがホンマ腹立つねん。
イライラすんねん、菊川怜
大詰めのシーン、國村さんが負傷して冷線砲(別の武器かも。よう覚えてないわ)を撃つことができなくなり、代わりに菊川に「撃て」と命じるんですが…… こいつがなかなか引き金引きよらへん。國村さんが横から「早よ撃てや、こらぁ!」って怒鳴ってるのに、なかなか引き金引きよらへん。北村龍平は「タメの演出」とか思ってるんやろけど、イライラするだけ。「早よせぇよ」と思わずスクリーンに向かって声に出してしもたわ(事実)。
討論会の謎
アレは結局なんやったんや? いらんやろ、あんなシーン。ストーリーには関係ないタレントがいきなり出てくるって過去の(84ゴジラ以降の)悪しき習慣を、なんで繰り返すかなァ。それならいっそ、木村大作が2時間喋りたおして方がまだ面白かったんちゃうか(笑)
ゴジラ以外の怪獣弱すぎ
USゴジラが瞬殺されるのはええとして、他の怪獣たち可愛そうすぎ。アンギラスちゃん、せっかく銀幕に復帰したと思ったらあんな扱いとは…… ラドンなんか造形も最悪やし(仮面ライダーの鳥系怪人か思たわ)。唯一おいしかったんがエビラっちゅーんもなァ。
ゴジラはどこ行ったねん
円盤内での松岡昌宏と北村一輝の対決シーン。円盤の外ではゴジラがガイガンと闘ってるっちゅーのに、そっちのけで人間のケンカが延々映しだされるってのは、どーゆーことよ。わしら怪獣映画観にきてるんやっちゅーねん。ゴジラ観にきてるんやっちゅーねん。客を舐めすぎ!

ああ、もう、こうして書いてるだけでもイライラしてきたので、このへんでやめときます。そやけど、何度も書きますけど、ホンマにバカなのは、北村龍平を信じたわたしなのですよ。嗚呼……

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